イタリアでウサギは食用です

意外にまだ認知されていないようですが、イタリアにおいてウサギは食用です。

なので我が家の畑で飼っているウサギについても、普段はペットだけど用途としては非常食です。

えぇぇ~、と思う方もいらっしゃるでしょう。しかしこれは単純に文化の違い。西洋の人にとり日本人が鯨食べるのを見てえぇぇ~、と思うのと同じ感覚です。

※ちなみに私は鯨大好きです。日本随一の捕鯨の地宮城県出身なので、給食にも時々出てました。クジラ肉の甘辛煮…最高だったなぁ。

また、飼っている動物を残酷な…という感情が湧く方もいらっしゃるでしょう。しかし一昔前は日本でもイタリアでも、というか今日先進国と言われている国々でも、各家庭に家畜がいる風景は普通だったのです。たいていの家で家畜を飼っており、年一度代替わりの時に殺めていただく。牧畜地域のここアルプスでは、ニワトリやウサギどころか各家庭に牛がいたそうです。今年還暦を迎えるくらいの友人が“オレが小さい時には…”と言っていたので、ほんの50年ほど前の話です。さすがに今は個人で牛を飼っている人は稀だけれど、ニワトリ・ウサギといったミニ家畜、人によっては豚を飼っていて、自分で絞めるあるいは絞め方を知っている人は結構います。

わたしはさすがにまだそのレベルには達してないものの、いずれは…せめて一度は体験を、と思っています。なぜなら、「命をいただく」という事を考えた時に必要なことだと思うから。

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…という内容の動画をアップいたしました。ブログ内容はほぼ動画で話している内容ですが、読むの面倒な方、動く三種の動物を見たい方(ヒト・イヌ・ウサギ)は以下の動画でご覧いただけます。文章は以下に続く…

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そんな残酷な…という気持ちは私にもある。目の前にいる動物をこの手で殺める事を想像するだけで、何とも言えない気持ちと拒絶反応を感じる。しかし、よく考えてみよう。例えば今夜どこかの食卓に並ぶ牛ステーキも、スーパーに行けばいつもある、発泡スチロールに入って綺麗に陳列される豚小間も、クリスマスやちょっとした集まりに欠かせない鶏モモも、全てはこうして生きていた動物だったのだ。その過程をすっ飛ばしているから見えていないだけで。

どちらも同じく心の臓があり赤い血を持つ命。その動きを止めて赤い血を流させた結果、目の前に並んでいる事に変わりはない。

むしろそれまでの過程を考えると、一体どちらが残酷なのだろうか、という疑問が湧いてくる。

大部分の大量生産お肉になる命たちは、身動きもとれないような空間で陽の光すら一生浴びないまま…お日様のまぶしさ、あたたかさを感じることもなく生き、殺められる時には一斉にガス室に送らるなどし、仕事としては効率的なのだが実に無機質に扱われる。

そしてようやくお肉となって日の目を見ても、それがかつては命だったと特に想像されないままに購入され、“お腹いっぱい”という理由だけで躊躇なく捨てられる。

「命を扱う」という事を考えた時、果たしてどちらがより残酷なのだろうか…?

うちの子達も、いずれはさようならだけど、少なくとも生きているうちは陽の光を浴び土のにおいをかいで、仲間達と遊んだりケンカしたり。そして殺める時は一対一の真剣勝負。

私がすでに若い時から「飽食の時代」なんて言われて、昨今は大量の廃棄食物が問題となっているが、それは今の私達があまりにも食が生産される現場から遠ざかっていることが一因なんじゃないだろうか。

また、「命をいただく」という話題になった時、“じゃあ動物を食べなきゃいい”“命を奪うのが嫌だからベジタリアン”なんていう声を時折聞く。がそれはハッキリ言って、非常に浅くかつ偏っているな、と個人的には思う。

なぜならそもそも、動物のみならず野菜・果物も「命」ですよね?

そして近年の産業化した農業の現場では、野菜・果物も、とてもとてもそれ本来の“らしさ”を活かした環境で育てられているとは言い難い。

人工的にきっちり温度管理されたハウスで土に触れることなく水栽培のみで育てられるトマトと、陽光が一切入らぬ薄暗い倉庫でケージの中で一生を終える鶏とどこが違うのか。キッツキツの間隔で植えられて1シーズンに30回以上の農薬散布を振りかけられるリンゴの木と、方向転換もできない牛舎でホルモン剤や抗生剤の入った人工飼料を与え続けられる牛たちと一体どこが違うのだろうか?

動物がかわいそう…という理由でベジになった挙句、肉食の人を見下したり自分が善人みたいな顔してる人、、、がもしいるとしたら(少なくとも私の周りにはいないがSNSなど見ていると存在はするようである)、それは自分と似た存在…心臓があり赤い血が流れている存在しか命と認めない、要は自分目線でしか物事見てないなと思うし、現代の食問題を解決するのに、単に「動物を食べない」だけじゃなんの一助にもならないのだ。

私の中では、野菜だろうがお肉だろうがつべこべ言わず、ひとつひとつに感謝して食べる。これが最もシンプルかつ誰にでもできる食べものを大事にする、って事だと思っている。

そんな事を思うにつけ、日本の「いただきます」。この言葉ほど偉大なものはないな~、と改めて思う。

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…変に悲劇的にしたりスキャンダラスに編集したのが私は嫌いなので、こういった淡々と事実を写してるものを観ています。

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